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慶尚北道のご紹介

独島は・・・

T独島の住所は、大韓民国慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里1-96である。鬱陵島から南東に87.4km離れており、晴れた日は鬱陵島の上から見える。
460万年前の火山噴火によって生成された。面積は187.453㎡であり、2つの大きな主要島である東島と西島で構成され、89個の岩島と岩礁から成りたっている。自然記念物336号(独島自然保護区)に指定された独島は、約286種の天然資源(植物、鳥および昆虫)と約331種の水産資源(魚、海藻など)

独島の経済的価値

独島近郊の海に大量の天然ガスが埋蔵されており、独島の外海はイカ・スケソウダラ・秋刀魚・マス・鮭・タラなどが豊富で、東海最上の漁場である。

独島は何世代もの間、韓国によって管理された大韓民国の領土である。

独島は新羅帝国の異斯夫将軍が于山国(鬱陵島)を征伐するために派兵された以後、韓国の領土であった。後の[世宗実録地理志](1454年)で茂陵島(鬱陵島)、于山島(独島)と言及され、[高麗史]地理志(1451年)、[新増東国輿地勝覧](1530年)そして[東国文献備考](1770年]を含む他の書籍でも独島の昔の名前である于山島を言及している。これは、独島が韓国の領土の一部と見なされていることを示す。1990年代に日本が帝国統治で韓国を併合したとき、独島は強制的に日本領土の一部となった。独島は解放時に明らかに韓国に返還されたが、日本政府は独島が日本領土の一部といまだに主張しており、国際紛争化された。独島は単なる島ではなく、韓国の歴史と独立を象徴化する。私たちは独島の歴史を学ぶ必要があり、独島を保護しなければならない。独島は韓国の領土、特に慶尚北道の一部である!

日本の江戸および明治王朝の期間の中で独島に対する基本的な理解

粛宗統治期間中(1693年)、日本での安龍福の拉致に起因した朝鮮と日本との間の協定の結果として、日本政府は、日本人の鬱陵島航海を禁止させることで、独島問題を結論付けた(1693年)。明治時代に入って韓国の内務局は日本の最高国家政府事務所に、竹島および一道は島根県監の指摘も公表によって、日本との関連がないことを発表することを要請した。これは鬱陵島と独島が日本と関係のないことを意味する。これらの歴史的な出来事は、日本が過去に独島を自国の領土として考えていなかったことを明確に証明するものである。

第2次世界大戦以後の韓国の独島所有権の再確認

第二次世界大戦が1945年に終わったとき、カイロ宣言(1943)が公表された。これは「日本は暴力と貪欲によって彼らが支配したすべての地域から退かなければならない」と明示し、独島は韓国に返還された。さらに独島は連合国の統治期間の間、SCAPIN第677号の下で、日本の統治および行政管理区域から除外され、サンフランシスコ条約(1951年)は、これを再確認した。このような事実に基づいて、韓国は歴史的に地理的に、そして国際法上で独島の所有権を失わなかった。

東島

独島の南東にある東島は灯台があり、大部分の海上および漁業施設が位置している。海抜98.6mで面積は73,297㎡であり、北から北東の方向60ºに位置する最も長い部分は450mである。中央部分は、海面まで下に伸びた垂直型の丸穴になっている。

西島

独島の北西に位置する西島は海抜168m、周囲は2.6kmであり、面積は88,740㎡である。最も長い部分は、北から南へ450m伸びていて、最も短い部分は、東から西へ300mの長さである。西島の頂上は急な円錐であり、主な施設として、漁師のための小屋がある。